フィニアス・ニューボーンの本作品は、録音から6年経って日本だけで発売された作品です。その当時はSJ誌で大きく扱われていたとのことで、ご記憶がある方もいらっしゃることでしょう。私はロックに夢中になり始めた時期であったため、ミュージックライフは読んでいましたが、SJ誌は見向きもしておりませんでした。ということで、市川氏の解説から少しばかりこの録音の時の様子と日本だけでの発売になった経緯を紹介します。
フィニアスが1950年代半ばからいくつかのレーベルに素敵な作品を残してきたことは、この「今日の1枚」で紹介してきました。1956年のRCAとAtlanticへの吹き込み、そして1959年のRouletteへの吹き込みでした。まさにフィニアスの輝かしい黄金期だったのですが、それは1964年に吹き込まれた「ニューボーン・タッチ」の録音で終わりを迎えました。病のため満足にピアノを弾ける状態ではなかったのです。そんなフィニアスに一瞬の回復が訪れ、その瞬間をコンテンポラリーのレスター・ケーニッヒが捉え、レイ・ブラウンとエルヴィン・ジョーンズという最高のメンバーを用意して、1969年2月12日と13日にレコーディングを行いました。その演奏は「プリーズ・センド・ミー・サムワン・トゥ・ラヴ」という作品で世に登場しました。
それから6年後に、このセッションの未発表テープが見つかったのです。当時のSJ誌の編集長だった児山氏はレスター・ケーニッヒに、その未発表の発売を強く要請しました。乗り気ではなかったレスターですが、児山氏の熱意に負けて、日本だけでの発売を認めたのでした。
そしてその時期はフィニアスが病から復活し、再び熱のこもった音楽活動を開始した時期でもありました。
レイ・ブラウンが1940年代に書いたミドルテンポの「レイズ・アイデア」、そしてスタンダードの「ステラ・バイ・スターライト」と続く本アルバム後半の展開は、フィニアスのテクニックと叙情性が輝きを放っている瞬間であります。一瞬のチャンスに最高の舞台を用意したレスターに見事に応えたフィニアスでした。
レイとエルヴィンの好サポートに支えながら、フィニアスがブランクを取り戻すかの意気込みでの演奏でしたが、病には勝てずに、この一瞬の後に更に5年間の空白を迎える事になります。本セッションの前後の10年間の空白がなければと思うのは、全てのジャズファン共通の思いでしょう。