先ずはマレイ絡みの作品が、何故ヴィーナスで製作されたが、大いに不思議なことでしょう。実はマレイ絡みではなく、ドラムのアンドリュー・シリル絡みで、ヴィーナスで製作されることになったのです。しかしシリル絡みと言っても、ヴィーナスのカラーに合うメンバーとは言い難いです。この辺りを含めて、解説の悠雅彦氏の文章を引用します。
シリルがセシル・テイラー・ユニットの一員として1976年に初来日して以来、悠氏とシリルは親密な付き合いとなったのです。
さて有名なのかは分かりませんが、パン・アフリカン・フェスティバルというものがあり、その第2回が1994年12月にガーナの首都アクラで開催されました。趣旨は「アフリカ文明の再来」であり、多岐に渡る芸術文化の催しが大々的に行われたのです。その催しの一つとして大西洋に面したケープ・コーストで、コンサートが開かれました。米国の黒人を代表して招かれたのが、スティービー・ワンダーにディオンヌ・ワーウィック、そしてこのシリル率いるアフリカン・ラブ・サプリームでした。
シリルはこのコンサート以外に是非このメンバーでレコーディングを残したいと考え、声をかけたのが悠氏だったのです。しかしそのレコーディングは様々な困難な状況に直面したのでした。先ず本編のパン・アフリカン・フェスティバル自体に、オリジナル・メンバーのジュリ・アレン(p)とレジー・ワークマン(b)が参加出来なかったのです。何でも西アフリカに蔓延していた風土病を怖がったらしいのです。その結果、A.S.コルソンとフレッド・ホプキンスにメンバーが代わりました。そしてレコーディング場所はアクラで手当て出来ずに、ダカールまで行くことになったのです。そしてそのスタジオにはピアノが無く、エレピでの演奏となったのです。
メンバーはドラムのシリルとマレイ、そしてオリバー・レイク(as)、更に上記の二人が参加しております。因みにマレイは、シリルと8回目、レイクとは18回目、ホプキンスとは29回目、コルソンとは2回目のレコーディングになります。
しっくりしていない演奏と言うか、無難にこなした演奏との印象です。ぶつかり合いが無いのだ。このアフリカン・ラブ・サプリームについては、本当に情報が掴めなかった。インターネットからの情報は皆無であり、解説を書いた悠氏の情報だけがこの世に存在しているようです。話題を集めるために、急こしらえしたバンドと疑いたくなりました。