My Favorite Things
(R.Rodgers - O.Hammerstein) (34分37秒)
【この曲、この演奏】
今日現在で聴けるコルトレーンの演奏で最後のものは、ライブでの演奏であり、ライブ定番曲の「マイ・フェイヴァリット・シングス」であります。
さて演奏ですが、いつものようにギャリソンのベース独奏から始まります。7分半のその演奏には、スパニッシュの香りもあり、聴きるピッチカート演奏となっています。
そしてバンド全員が突入し、コルトレーンのソプラノ・サックスによる雄叫びが響き渡り、8分続けて吹きまくっています。この曲のテーマは、3分ほどのところで、そして最後のところで姿を見せ隠れするように演奏しています。
続くのはファラオのテナー・サックスによる10分間のソロです。コルトレーンのソロから引き続きアリのドラムが絶好調の中で、ファラオも吹きまくっています。ファラオの雄叫びは、冥王星に突き刺さる勢いになっています。
そしてコルトレーンが再び登場です。9分近く吹きまくります。聴くものはその凄まじ演奏に、ただただ圧倒されます。これは、魂のぶつかり合いなのか、本音を曝け出してしまった人間同士の後には引けない戦いなのか、ぶっ壊さなければ新しいものは生まれないのか、新しい扉は開けるものではなく蹴破るものなのか、そんな念が蠢く演奏です。
あなたはこれからも開拓者なのだと感じさせる演奏を、コルトレーンはアフリカ文化センターで披露しました。
【エピソード、オラトゥンジの文章、ジョン・コルトレーン:その印象と記憶】
一九六七年にオラトゥンジがアフリカ文化センターを設立するにあたり、コルトレーンがどのように協力してきたかについて、オラトゥンジの文章が残っている。それはニュージャージー州ラッガーズ大学ジャズ研究所に保管されており、過去に出版された例はない。(資料04)
長文の中から冒頭の部分、全体の二割ほどの部分をここに紹介する。
人が仕事上で遭遇する経験について語るなら、ジョン・コルトレーンはその全てを味わっていた。ジョン・コルトレーン ー物腰が柔らかく、物静かで、謙虚な兄弟ー は、レコード会社がどうやってミュージシャンをこき使い、その才能をしゃぶり尽くすかということを、嫌というほど知っていた。彼は、多くが寄生虫のような、アーティストの尻を叩いて働かせることしか脳のないマネージャーやエージェントにも耐え忍んできた。スーツケース片手にホテルを渡り歩き、街を点々とする毎日の中、誰にも健康を気遣ってもらえず、それでいて金銭的にそれ相応の扱いを受けることがない。彼が相手にしてきた音楽業界の滑稽なる仕掛け人たちは、番組制作者や、多くの場合、これから自分がターンテーブルに載せようとしているレコードの知識が皆無に等しい、無知なディスクジョッキーの袖の下を握らせ、この国で”トップ・テン”に入るべき曲を決定する。
ジョン・コルトレーンがようやく”大物”の域に達し、”彼らが”ついにコルトレーンの時代が”到来”したと判断したときも、彼が愛し、そして演奏してきた音楽への批評の多くは、彼の表現方法や幅広い創造性を理解できていなかった。評論家たちはコルトレーンが神童だったことを知らない。コルトレーンは、 ー他の多くの黒人ミュージシャンと同様、揺るぎない差別と不公平、そして音楽業界において人間的尊厳と良識が完全に無視されていた時代に、成長と創造の機会を(生まれながらにして)剥奪されながらー 平和的だが破壊的な緩やかな洗脳のプロセスに耐え抜いてきたのである。
人によってはいまだに、コルトレーンが公会堂や劇場、ジャズ・ルームで演奏することをやめたのは、自称ジャズ評論家や、嫉妬深いエゴの塊のような連中に自分の音楽を批判されることを恐れたからだと、信じている。だが、ジョン・コルトレーンが上述の決定を下した理由は次の通りだと、私は確信している。
1 コルトレーンは、学校で教わる音楽的知識の適用において、自身が最高レベルに達してしまったと悟った。従って、創造面での新たな頂点に達し、より刺激的な表現(例えば、人間の試練と苦難について、失敗と成功について、喜びと悲しみについて)を得るために、別の源泉を探し求める必要があった。
2 コルトレーンは、コンサート興行主の”搾取”にうんざりしていた。彼らは、才能はあるが売れないアーティストが、長い下積みの果てに突然脚光を浴びた瞬間、その高まる一方の名声と認知度を食い物にすることしか頭にない。アーティストたちは、”トップ”に立つべき者を決定する意思と力を持つ人間によって育成され、管理され、保護されることになる。激しい感情を表に出さないことで知られているコルトレーンは、目先の利益のために魂を売り渡すことを拒否した。
(資料04では、この後にオラトゥンジとコルトレーンの具体的な関わりについて書かれている。そこについては、別の機会に掲載したい)
【ついでにフォト】
2010年 ペナン、マレーシア、タイプーサム
(2021年11月15日掲載)