19650616-08

Vigil (John Coltrane)    (9分52秒)



【この曲、この演奏】

 この曲名での演奏はこのセッションだけですが、この年の4月2日の黄金カルテットによるライブで、この曲が持っているテーマのようなメロディが、コルトレーンのアドリブ・パートの中にあったとのことです。(資料07)

 ここではマッコイとギャリソンがお休みとなり、コルトレーンのテナー・サックスと、エルヴィンのドラムスの、一騎討ちとなっております。

 ドラムスだけで1分強の演奏、そしてテナー・サックスのコルトレーンが登場し、9分ほどを吹きまくりとなります。ライブの最中の熱演部分を切り取っての10分とも思うほど、アドリブだけのコルトレーンであります。そしてこの二人は相手に演奏をよく聴きながら、自分の手札を見せているなと感じました。

 私としては、サックスとドラムスだけで10分のの作品が成り立つのかの実験のように感じました。その意味では、この演奏前の二曲がこのセッションの主になるのかなと思いますが、コルトレーンの生前に世に出たのはこの演奏だけです。1967年にアルバム「クルセ・ママ」に収録され発売されました。




【エピソード、ジョー・ゴールドバーグの著書から その15、最後】

 1965年に刊行されたジョー・ゴールドバーグの著書「Jazz Masters Of The Fifties」の中の、コルトレーンに関する思慮に富んだ文章の日本語訳が資料04にあるので、数回に分けて掲載する。


 ステージを下りれば、シェイで人懐っこいコルトレーンが帰ってくる。葉巻だけが、彼が成功を自覚している証だ。ツアーばかりに出ているコルトレーンの懸念はと言えば、長く妻に会えないことだ(「妻は私のことをよく分かっている。リーダーゆえの悩みを理解してくれるんだ」)。彼が自分の成功をこれほど冷静に受け止められるのは、下積み時代の苦労があったからであろう。だからこそ、自分が属している業界に対して、とことん現実的な現実的な見方ができるのだ。「ジャズについて語るときには」とコルトレーン。「私はいつもプロボクサーのことを考える。今は私の年かもしれないが、去年は別の誰かの年だった。来年になれば、誰も彼のことを覚えていないだろう。わずか数年が勝負なんだ。そして、一年でも長くその地位にとどまれるように努力する。そうすれば、たとえ誰かの番になったとしても、穏やかな気分でいられるからね」

 そこで一つ知りたくなった。もし自分の下で学んだ若手ミュージシャンに追い抜かれたとしたら、コルトレーン師匠はどうするのか。

 「サックスを吹き続けるよ」と彼は答えた。「それだけはもう、絶対にね」



【ついでにフォト】

tp05041-014

2005年 香港國際龍舟邀請賽2005 尖沙咀東


(2021年7月20日掲載)