19590115-08

Centerpiece
(Harry Edison / Bill Tennyson) 
(7分8秒)



【この曲、この演奏】

 全く知名度がないこの曲ですが、二人のジャズマンによるものとクレジットされています。一人は知名度があるトランペット奏者のハリー・“スウィーツ”・エディソン、もう一人は知名度が低いビル・テニスンです。ウィキペディアには記載されている方ですが、そこには次のような記述があります。

 Tennyson died, aged 36, in a car crash in New York soon after completing a hit record Centerpiece with John Coltrane.

 この一文から想像するに、この曲はテニスンとコルトレーンの関係から用意された曲なのでしょう。

 コルトレーンの演奏記録は本セッションだけですが(資料06)、資料08によればミルトはこの曲を1976年の厚生年金会館でのステージで披露しています。

 さて演奏ですが、ゆったりリラックスのブルースを披露しています。この手の演奏はジャズに限らず、ミュージシャンの存在感が鍵となります。それがなければ、だらだら流しのブルース演奏となってしまうのですが、ここではコルトレーンとミルトをはじめ、クインテットの風格を感じる演奏に仕上がっています。

 ここでの演奏は「bags & trane」には収録されずに、1970年発売の未発表曲集「The Coltrane Legacy」に収録されました。



【エピソード、アトランティックとの契約、別の背景】

 資料11にコルトレーンがプレスティッジの次の契約先を探していた様子を、次のように記載している。

 1959年は、コルトレーンには始まりと終わりであった。彼のプレスティッジでの契約は終わり、以来二度と彼は同レーベルに吹き込むことはなかった。新たなレーベルを探して、彼は最低二つのレーベルと交渉していた。アトランティックとリバーサイドである。この時には彼は、レコーディングを重要な収入源の一つと考えており、そこから年収の総額を想定していた。キープニュースは、コルトレーンが年間4枚のリーダー作を録りたいと言ったと記憶しているが、プロデューサーから見て、それは芸術的に不可能な数だった。(1年で2枚が当時のジャズ・レーベルの標準で、現在では1枚が普通)面白いのは、コルトレーンがモンクのリバーサイドに於けるアルバム1枚辺りの著作権アドヴァンスの額を知っており、それを参考に目算していたことだった。彼は、自分にモンク以上の価値はないと感じて、キープニュースに、その金額より多くを要求するつもりはないと言い、それ故、彼の需要に見合うよう録音の回数を増やしたのである。

 果たしてコルトレーンは、アトランティックと契約し、59年と60年の2年間、そこで吹き込みを行った。そこからリリースされた作品には、のっけから、ユニークでよく練られたコルトレーンの楽曲が堰を切ったように出てくる。最後のプレスティッジ・セッションから4箇月とたたぬうちに、コルトレーンは初めて記念碑的作品「ジャイアント・ステップス」を吹き込んだ。このタイミングの良さは、彼がだいぶ前から作曲に於いて一歩進んだアイデアを試しており、芸術的自由をより多く与えてくれるような環境を待っていたことを強く示している。



【ついでにフォト】

tp05032-106

2005年、香港


(2020年3月29日掲載)