Slow Blues
(John Coltrane)
(11分25秒)
【この曲、この演奏】
この曲名については、1958年3月26日のセッション、ガーランド入りカルテットでのセッションに触れる必要があります。その日のセッションの五曲目にコルトレーン作の「By The Numbers」という曲を演奏しました。詳しくはこの曲の「今日のコルトレーン」のページを参照願いたいが、ワインストックのログ・ブックには「Slow Blues (1492 Blues)」と記されていたのでした。12分に及ぶそこでの演奏は、ガーランドのピアノを大フューチャーした、ゆったりブルースでした。その演奏は何とぶつ切りでシングル盤発売されたのでした。頭から終わりまできちんとした形で世に出たのは、1966年発売の「The Last Trane」への収録でした。
それから5年後のこのセッションで、「Slow Blues」という曲名のものが、演奏されています。1983年に発刊された資料09にこの曲名で書かれていますし、ここでの演奏の前にヴァンゲルが「Slow Blues」とアナウンスしています。
さてその演奏ですが、曲名通りにゆっくりブルースで、その意味では1958年3月26日のセッションと同じです。辛味が光るコルトレーンのテナー、凛々しいマッコイのピアノが堪能できる、気持ちが入った演奏となっています。
さて1958年と1963年の「Slow Blues」ですが、曲名通りのスローなブルースであることは両者同じです。ここでは私は、1958年は甘いカクテル、1963年のは喉越しの辛みのスコッチと申すだけにしておきます。
【エピソード、バーバラ・ガードナーの記事 その9】
彼に対する批評界の嘲笑的な最初の風は徐々に消え、次に彼を襲ったのは、世間の怒りや気取り屋の冷笑であった。弁が立つライターたちは彼のことを”怒れる若きテナー”と呼び、彼のサウンドを”犬の遠吠え”と、彼のアイディアを”情熱のひきつけ”と呼んだ。
コルトレーンに同情的なライターの一人、アイラ・ギトラーは、一九五八年に彼のプレイを”シーツ・オブ・サウンド”と表現した。その年の終わりにはミミ・クレアが「ジャズ・レヴュー」誌上で、このサックス奏者のプレイを、”慌ただしく広げられた蛇腹のひだが付いた数ヤードの絨毯”とより詳しく言い表した。
コルトレーンの名前がチャーリー・パーカーと同じ文脈上で囁かれ始めると、あるライターが反撃した。「チャーリー・パーカーのプレイがスイッチ・オンとオフを繰り返す扇風機だとすれば、コルトレーンのそれはスイッチが入ったまま回り続ける扇風機だ」
その頃、わずかに残っていたコルトレーンの信奉者たちは、加熱する一方の議論の渦にほとんど飲み込まれてしまった。一九六〇年頃のジャズ評論家とリスナーの一般的態度は、マーティン・ウィリアムスのレコード評の中でいみじくも表現されている。
「(中略)今、皆さんに一番求められているのはおそらく忍耐力だ。植物が成長するとき、いちいち土から引っこ抜いて根を眺めていても仕方がない」
この比喩的戒めを受けて、ジャズ愛好家の大半はプロにしろアマにしろ、”怒れる若きテナー”の熟成をじっくり待つことにした。ただ、彼らが待つ間も、トレーンは止まらなかった。一九六〇年四月、コルトレーンは自身のコンボを結成し、以降、メンバーや楽器をとっかえひっかえしながら、新たなサウンドや音楽的コンセプトの探求を続けた。
(資料04より)
【ついでにフォト】
2005年 香港島 トラム
(2021年4月18日掲載)