All Or Nothing At All (take4)
(J.Lawrence – A.Altman)
(3分43秒)
【この曲、この演奏】
この曲は1940年にフランク・シナトラをフィーチュアしたハリー・ジェイムス楽団が録音したラブ・バラードです。発売当時はあまりヒットしませんでしたが、シナトラがスターになった後にミリオン・セラーを記録しました。(資料14)
コルトレーンの演奏記録は、本セッションだけです。
このセッションではこの曲を5回演奏しており、最後のテイクが採用されました。最初の3つのテイクは演奏し切っておらず、この4番目のテイクは最後までの演奏となりました。
私はシナトラが1966年に発表したグラミー賞受賞アルバム「Strangers In The Night」に収録されているこの曲を聴きました。バックのアレンジには少なからず異国情緒を感じるものです。
このコルトレーン・バンドでの演奏では、ドラムに独特のリズムを持たせています。それがこのテイクでは、全くものにできていません。出だしのドラム、それに続くピアノ、そしてコルトレーンのテーマ、どれも戸惑いの演奏です。
2002年にこの没テイクは世に出ました。
【エピソード、マウスピース不調説は真なり? その3 売り上げは必要】
自分のやりたいようにアルバム作りを行いたい、これはジャズマンとしてリーダー作を作れるようになった段階で、誰でも願うことであろう。しかしながら、レコード会社がそれを認めるのは、ミュージシャンの思いに予算を割り振るのは、本当に数少ないジャズマンだけに許されることであった。「売れる」ジャズマンだけに許されることであった。音楽的内容がいかに優れていても、「売れる」ジャズマンでなければ、アルバム制作に関する自分の主張の多くが認められない。これはポップ・ミュージックでより顕著だし、またクラシック音楽の世界でも言えることである。そしてそれは今に至るまで、続いていることである。
プレスティッジ時代にコルトレーンは、嫌というほどこれを味わってきたはずだ。そしてジャズ界の「売れる」男、マイルスのコロンビアでの活動に参加することで、「大きなレーベルで自分の希望が通る」ことが、自分のやりたいことをやる必要なことだと実感していたのであろう。
いい条件でアトランティックに移り、セールスの実績も残した。そして大手ABCパラマウントのジャズ・レーベルであるインパルス!に、さらに良い条件で移籍した。そして、大人数でアフリカ/ブラス、ドルフィーとのヴィレッジ・ヴァンガードでテープをまわし続けることもできた。プロデューサーが急遽の交代となったが、ボブ・シールとも短期間で関係を築けた。
このインパルス!で活動を続けたい、それには何が必要だ、数字だ、コルトレーンはこれを分かっていたと思う。ボブ・シールの提案に対して、バラードでの三部作の制作を拒む理由はコルトレーンになかったのだと、私は思う。
以上はあくまで私の見解である。各資料にこの点についての明確な記述はない。
【ついでにフォト】
2009年 ペナン島
(2021年3月20日掲載)