Mr. P.C.
(John Coltrane)
(6分59秒)
【この曲、この演奏】
このコルトレーン作のアップテンポのマイナー・ブルースは、曲名の通りポール・チェンバースに捧げたものであり、またライブでのコルトレーンの重要曲となっていきます。1961年にコルトレーン・バンドにベース奏者ジミー・ギャリソンを迎えて以降1963年まで、資料06には24回の演奏記録が残っています。
ではチェンバースと一緒のこの曲の演奏となると、本セッションだけとなります。
3月のセッションから本セッションまで、コルトレーンが用意した曲の多くは、彼が追求したコード・チェンジを現実化したものですが、この曲はハード・バップの熱気を感じさせるものです。そして演奏もその熱気そのままですが、そこにはコルトレーンが追い求めたスピード感がしっかりと生きています。
チェンバースにソロ・スペースをとの声もあるかと思いますが、コルトレーンはバッキングでのチェンバースのベース・ラインを最大限に活かす仕掛けをしているのではと、私には感じます。
【エピソード、ポール・チェンバース】
マイルスに抜擢され、1955年にマイルス・バンドに加わったコルトレーンは、ベース奏者のポール・チェンバースと出会った。マイルスは同じ年とはいえ既に大物、フィリー・ジョーとガーランドは三つ上の先輩という中で、コルトレーンにとって9歳下のチェンバースは、そしてコルトレーン同様にこの時期から脚光浴びるチェンバースは、弟分のような仲間であった。
二人は私生活でも相性の良さがあったが、演奏面でもお互いに満足できる存在となった。それはコルトレーンのプレスティッジ時代には、殆どのセッションでチェンバースと一緒であったことからも理解できることだ。1959年にコルトレーンがアトランティックに移籍してからも、信頼できるチェンバースをコルトレーンは頼っていた。
1960年4月にコルトレーンがマイルス・バンドを辞した(1961年に客演はあるが)後、コルトレーンが本格的に自分のバンドを結成した際に選んだのは、チェンバースではなかった。そして短期間に紆余曲折を経て黄金カルテットを編成する際には、ジミー・ギャリソンがベース奏者となっていた。
何故にコルトレーンはチェンバースを選ばなかったかについて、この「今日のコルトレーン」でお世話になっている各資料にその明確な言及はない。恩人マイルスのバンドからチェンバースを引き抜くわけにはいかない、これが当たり前の考えなのであろう。
資料10には「コルトレーン KEYPERSON10」があり、その十人ににはチェンバースとギャリソンも入っている。
チェンバースの項には、この「当たり前の考え」の他に、次のような記述がある。
未知の領域へ歩みを進めていたコルトレーンにとってハードバップの代名詞といえるチェンバースは共に歩き続けることはできない存在であった。
またギャリソンの項には、次の記述がある。
ソリストがハーモニーにアプローチしてゆく過程で必要とするのはメロディックでベーシックなラインを弾くベースである。つまりチェンバースなのだが、コルトレーンがダイナミックスを求めてドラムスとベースを選ぶ時点では、それまでのベースとドラムのコンビネーションとは違うものを要求していたと思う。それはエルヴィンが入ってからそれまで以上にコルトレーンはベーシックなコードを単純化する方向に進んでおり、ベースへのハーモニーの要求が変わってきているのである。
どちらも明確な指摘とは、音楽知識に乏しい私には思えないが、何となく感じるものはある記述だ。
以上はコルトレーンからの視点でのものだが、チェンバースからの視点でみると、ウィキペディアに次の記述がある。
サイドマンとして数々の共演をこなしたチェンバースであったが、マイルス・デイヴィスに始まるモード・ムーヴメントやオーネット・コールマンやジョン・コルトレーンのフリー・ジャズにはあまり興味を示さず、モダン・ジャズの本流とも言うべきオーソドックスなスタイルを生涯変えなかった。
黄金カルテットにチェンバースがいたら、あの作品でチェンバースが演奏していたら・・・、誰でも考えたことがあるのであろう。
【ついでにフォト】
2010年 ペナン、タイプーサム
(2020年6月27日掲載)